江田五月さんの訃報に接し…

江田五月元参議院議長の訃報に接し、まだ心の整理がつきません。

 

私にとって、同志であり、憧れであり、師匠であり、恩人であり、人として尊敬できる偉大な方でした。本当に、残念でなりません。

 

改めて、江田さん(「先生」と呼ばれるのを嫌う方で、私も含め周囲は皆、さん付けで呼んでいたので、ここでもそう呼ばせていただきます)の主な政治キャリアを簡単にご紹介します。

  • 1977年、社会党を離党し社会市民連合(後の社民連)を結党したばかりの父・三郎氏の急逝を受け、参議院選挙全国区に同党公認で立候補し、初当選。
  • 1993年、38年間単独政権を維持し続けた自民党を下野させた細川内閣で初入閣(科学技術庁長官)。
  • 2007年の参院選では、民主党が大幅に議席を増やし自民党が過半数を割り込んだため、野党初の参議院議長に就任。
  • 2009年に政権を奪取した民主党内閣では、法務大臣や環境大臣などを歴任。

などなど。

 

スピーチなどで、ご本人がいつも仰っていた通り、父・三郎先生の志を引き継ぎ、日本に政権交代可能な政治の仕組みをつくることに命懸けで取り組まれた政治人生でした。先にご紹介した政治キャリアが、まさにそれを体現しています。昭和から平成のかけての我が国の政治史、とりわけ自民党VS野党の権力闘争の歴史において、欠かすことのできない主要な登場人物の一人だと言っても過言ではありません。

 

このような偉大な政治家が、郷土・岡山から輩出されたことを誇りに思います。

 

政党トップになっても、参院議長になっても、大臣になっても、決して偉そうにすることなく、常に気さくで物腰の柔らかい方でした。「実るほど首を垂れる稲穂かな」という言葉が、これほどぴったりくる政治家を、私は他に知りません。

 

司法試験を在学中にパスされ、東大法学部を首席で卒業されたことが物語るように、頭脳明晰で、ディベーターとしても卓越した存在でしたが、演説では難しい言葉は使わず、ソフトな語り口でユーモアを交えながら、聴衆を飽きさせないような話し方を徹底されていました。いわゆる「市民派」「革新」のエース的存在でありながら、人脈形成や政治判断において、バランス感覚と柔軟さを持ち、「理念」一辺倒ではない「現実派」の一面もあったように理解しています。「保守」からも一目置かれる存在で、参議院議長として「衆参ねじれ国会」の難しい舵取りを任されたのも理解できます。

 

また、文化芸術に造詣が深く、書道の腕前もプロ顔負けの達筆で、江田さんの書を集めた個展が開催されるほどでした。自らバイオリンを演奏されるなど、上品で芸術家肌なところがあり、スリムで理知的な風貌などと相まって、庶民派でありながら泥臭さを感じさせない、とてもスマートな紳士でした。若い頃、「革新のプリンス」と言われたのも頷けます。

 

私は、民進党岡山県連で幹事長を務めていたことがあり、当時、県連顧問だった江田さんとは、上司と部下のような関係で、よく一緒にお仕事をさせていただきました。江田さん引退後の参院選では、後継候補の黒石健太郎さんの選対委員長を江田さんが、同事務局長を私が務め、候補者の擁立段階から選挙前の準備、選挙本番の活動まで、一緒に汗を流したことが強く印象に残っています。また、2016年に江田さんが桐花大綬章を受章された際は、党県連が中心になって「祝う会」を開催し、私がその事務局長の大任を仰せつかったことも忘れられない思い出です。

 

江田さんは、私が、県議会議員に初めて立候補する際に、最初にご相談を申し上げた何人かの中のお一人です。その際、温かい激励とアドバイスをいただきました。お住まいが、私の選挙区内にあることもあり、ご自身の後援会名簿に載っている地域の支援者の方を数多くご紹介していただきました。私の最初の県議選の時には、支援者宅のご訪問に同行してくださるなど、奥様ともども、大変お世話になりました。政治家「髙橋とおる」をデビューさせてくれた大恩人でもあります。

 

思い出はつきませんが、嘆いてばかりでは江田さんに叱られます。

政権交代可能な政治の仕組みをこの国に根付かせる、という江田さんの志を私たち後輩が引き継ぎ、その実現に向け、ここ岡山で行動していきたいと思います。

 

ご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

 

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