百間川と父のこと

以下、7月26日のフェイスブックへの投稿を転載します。

今日は、国土交通省岡山河川工事事務所に伺いました。

私の選挙区の中区は、今回の水害による被害は比較的小さいものでした。河川の越水、決壊はなく、浸水が起こったのは、旭川や百間川の水位が上がり内水が放水しにくくなったことによる内水氾濫でした。

ただ、歴史を紐解くと、この辺りは、旭川、百間川の氾濫により度々浸水被害に見舞われたエリアです。今回の水害で両河川の越水や決壊が起こらなかった理由について、河川工学的な根拠を確認したく、工務課の景山繁専門官から説明を受けました。併せて、今後のこのエリアの防水対策上のハード面の課題についても伺いました。

また、減災という視点から、住民一人一人がどのような事に気をつければ良いか、いわゆるソフト面の対策について、遠藤健二防災情報課長からお話を伺いました。

旭川と百間川の分流部改築の必要性と整備効果などについて、専門家からわかりやすく、そのメカニズムを聞くことができ、大変勉強になりました。今後のハード面の課題についても理解する事ができ、有意義なヒアリングでした。

ソフト面の課題にも、多くの気づきがありました。発災時、私も中区内を駆け回り、いくつかの避難所に顔を出しましたが、避難指示が出ていたにも関わらず避難者がほとんどいない所もありました。高齢者や障がい者など要配慮者への早い段階での避難についても、かなり問題があったと思います。

自治体の避難マニュアルなどと照らし合わせて今回の避難状況を振り返ると、計画通り出来ていなかった事が多いのではないでしょうか。被害が小さかったという結果オーライでOKとするのではなく、今回の豪雨災害から学ぶ事を見つけたいと思います。

 

投稿には書きませんでしたが、実は、この5月に亡くなった私の父は、学校卒業後、定年退職するまで国交省(当時は建設省)に勤めていました。もう20~30年前の話ですが、岡山河川工事事務所にも長く勤務していました。

子どもの頃は(実は大人になっても)、父親の勤務先は言えても、具体的にどのような仕事をしていたのか理解していませんでした。自分で自分のことを「技術屋」と言っていましたし、工務課という部署名にも記憶があるので、影山専門官の説明を聞きながら、もしかしたら親父もこんな仕事をしていたのかもしれないな、と考えたりしました。

いただいた資料を見ると、百間川の河川改修は昭和49年に本格的に着手され、平成9年には工事実施計画の百間川分流量に対応した堤坊が概成し、百間川河口水門の増設工事は平成27年に完成しました。現在は、旭川との分流部の改築が行われています。昨年、「一の荒手」という分流部分の改修が進み、旭川と百間川の分流比がほぼ2:1になったそうです。上流で大量のダムの放水があっても、両河川へ絶妙のバランスで分流することが可能になったことが、今回、中区など岡山市南部の被害を相対的に小さくとどめた要因と推測されます。

昭和40年代にスタートした事業であれば、父もこの河川改修に関わっていたことは間違いありません。父を含む多くの皆さんの仕事の積み重ねが、流域の住民の皆さんの生命や財産を守ったのかもしれないと思うと、少し誇らしい気持ちになりました。今夜は、仏壇に向かい、親父がどんな仕事をしていたのか少しだけわかったよ、と報告したいと思います。

河川工事事務所の玄関に掲げられた垂れ幕には、「7月7日は『川の日』です」と書かれていました。今回の豪雨災害は、7月6日~7月7日にかけて起こりました。なんとも皮肉な話です。奇しくも、翌7月8日には、父の四十九日の法要が執り行われました。

豪雨災害への対応は、現在、県政最大の課題です。「県議会議員なんだから、ちゃんと対応しろよ」と、父に背中を押されているような気がします。

 

 

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